法林寺
法林寺は、元和七年(1621)、臨済宗妙心寺派の本山である京都妙心寺に、塔頭「宝林院」として開かれました。開山和尚は霊峰和尚(1590~1680)、勧請開山は海山和尚でした。
開基は、米沢藩家老直江兼続の妻お船の方(宝林院殿、1557~1637)です。お船の方は、戦乱に翻弄された主君菊姫(大儀院殿、米沢藩初代藩主上杉景勝の妻、武田信玄の娘)の菩提と、直江家の菩提を弔うために、宝林院を建立しました。
ただ宝林院開山の霊峰和尚は、市街よりも山野での修養を好まれたため、のちに宝林院は京都の隣、亀岡篠村へと移されます。そして新たに「法林寺」となるのですが、その因縁について、開山霊峰和尚の行状には、
《ある日、丹波篠村(京都府亀岡市)の人が来て「景致勝絶な土地に住んだのだが、家長が突然死した。たいへん悲しく、師に土地を寄付したい」と告げました。
霊峰和尚が行って見てみると、そこは「梵宮の霊地」で、古代より「天門鎮護・厄疫除け」のために寺院が鎮座した霊場だったのです。これを良縁として、その霊地に宝林院を移すことにしました》
とあり、この因縁により宝林院を亀岡篠村に移築しました。そして「宝林院」開基の直江家と菊姫に加えて、霊峰和尚を支援した徳川家と尾張徳川家の菩提をまつって、寺名を「法林寺」と改め、追善供養と仏法修養、それに天門の鎮護を引き継ぐことになりました。
現在でも、法林寺はこの霊地にあって、報恩感謝・追善供養と厄災鎮護・平安久栄を祈祷し、開山和尚の法灯を守り、心とは何か、人間とは何かを探求し、仏教臨済宗の教法と儀式を行っております。
開山霊峰和尚
法林寺の開山(開祖・創業者)は霊峰和尚です。和尚は美濃守護をつとめた名家の出ですが、幼少期が戦国期にあたり、下剋上により生家の滅亡を経験され、幼くして京都東山の天台門跡寺院の妙法院や、真言宗の智積院で出家勉学されましたが、近くにあった臨済宗祥雲寺の海山和尚を敬慕して、臨済宗に変わられました。
そして若くして、その才徳を徳川家康に見込まれ、徳川家の家庭教師をなされます。
のちに京都や奈良で専門的に仏教と学問とをおさめ、名僧として知られるようになり、尾張徳川家、大垣戸田家、美濃稲葉家などが帰依し、各藩主に教授されました。
また三代将軍徳川家光の乳母春日局、尾張新陰流剣術開祖の柳生兵庫助利厳、小野派一刀流開祖の小野忠明、女流文人小野宗鑑、日蓮宗の元政上人、中国からの渡来人陳元贇など当時の知識人文化人と親交をもち、交流をされておられます。そのようななか、米沢藩家老直江兼続の妻お船の方の帰依を受けて、妙心寺に宝林院(のちの法林寺)を開創されました。
和尚は、その生い立ちからか名誉や権力を持つことを好まれず、大寺院への住職要請は、ほとんどを固辞して他に譲られ、枯淡を貫き、つねに岐阜や兵庫・京都などの山野の霊妙静寂な寺院に留まり、自己とは何か、人間とは何か、心とは何か、生死とは何か、文化とは何かを問い、修行と教化を行い、九一歳の長寿を保ち亡くなられました。
和尚とその弟子一門を霊峰派といい、その流れは京都、大阪、兵庫、愛知、岐阜などに広がっており、現在でも二〇ヶ寺ほどが法灯を守っております。
そのなかでも法林寺は、和尚が初めて開山(創業)された寺院であり、なおかつ各地を修行教化で巡った最後に再度住持して遷化され、墓塔が建立された地であることから、霊峰派の法源地となっております。
寺名 法林寺(ほうりんじ)
山号 西巌山(せいがんざん)
本尊 釈迦如来
経典 仏教経典・禅宗語録
開山 霊峰和尚(れいほう おしょう)
創建 元和七年(1621)
宗派 臨済宗妙心寺派(りんざいしゅう みょうしんじは)
所在地 〒621-0826 京都府亀岡市篠町篠下中筋41
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